フードライター・白央篤司さんの連載「名前のない鍋、きょうの鍋」が好きで、追いかけて読んでいる。
鍋の湯気の向こうに見えるひとりひとりの人生、他者とのかかわり方、折々でくだした決断、かつての夢と今の夢。それらを尊重する真摯な文章が心地よい。加えて、「女性だから○○」「男性なのに○○」といった決めつけが文中にない。なんといっても、インタビュイーの男性配偶者を「ご主人」ではなく「夫さん」と書いている!
そんな著者の最新刊がこちら。自身の生活を振り返りながら、日々の献立や買い物の考え方、料理に対する力の抜き方、楽しみ方などを、素朴な語り口で提案するレシピ&エッセイ集である。
人と暮らすに際しての教科書にうってつけだ。もしこれから同居の予定があるのなら、料理を中心とした暮らしの共通認識を深めるために、同居予定の相手と一緒に読んでみるといいかもしれない。もちろん、今現在すでに誰かと暮らしている人にも寄り添う内容だ。新型コロナウイルスの流行(あるいはそれ以外の理由)により生活が変わり、在宅時間が増え、同居人と自分の家事バランスに悩んでいる人にも、きっと向いている。
日々の食事づくりには、ハードルがいくつもある。「料理担当者」の悩みは尽きない。
プロ並みとはいかずとも、ある程度は見た目や味に満足したいし、喜びを得たい。メリハリをつけて贅沢もしたい。自分の料理の味に飽きたらどうしよう? スーパーのお惣菜は心強い味方だが、毎日買うには割高だ。買い物に行く余裕がないときは? 献立を考えられないほど疲れているときは?
……と、挙げればキリがないが、きっとなにより辛いのは、食事づくりのハードルや悩みの数々を、料理担当ではない同居人が分かち合おうとしないときではないだろうか。
その辛さに、本書は柔らかくも的確に切り込んでいる。
人はどうしても、すべてに優劣や順位を無意識のうちにつけてしまいがちである。家庭生活に関しては、「稼ぐこと」が何より大変で、「えらいこと」……なんて考える人は、さすがにこの現代少なくなってきていると思いたいが、大事なのは家事に関して「誰でも出来るようなこと」「大したことじゃない」と考えてしまわないことだ。(p105)
世の中のいろいろな仕事に関しては「想像もつかないけれど、仕事それぞれにそれなりの大変さがあるのだろう」と考えらえる人はわりにいると思う。
家事についても同じように、思えるかどうか。(p107)
本書のタイトルは「台所をひらく」だ。孤独に追いやられ、苦しみながら台所に立つのではなく、台所の内側からも外側からも扉を「ひらいて」こそ、共同生活はフェアなものになる。
料理担当ではない人に向けた「「食べる人」は何を考えて、どう動く?」(p114~)は、まさしく台所の外側からのアプローチである。また、「家庭料理って、つまり何なのでしょうね」(p142~)では、「家庭的」という言葉を近くに遠くに捉え直すことで、家庭料理がいかに個人的な営みであるかを唱えている。
ちなみに「家庭的」を辞書(新明解 第7版)で引いてみると「家庭の円満や家族の健康などを何よりも大事にする様子」とある。
もうこの時点で厄介である。「何よりも大事に」というところに献身的なものが読み取れはしないだろうか。自分の意志や都合よりも、家族の意向や栄養バランスを重視、優先する誰かの姿が「家庭(的)料理」という言葉からは見えてくるときがある。(p142-143)
「女性は料理するべき」「女性は料理上手であるべき」といったジェンダーバイアスは、まだまだ根強く残っている。「家庭的」であることを求められて傷ついた経験は、料理への向き合い方を複雑にする。女性自身、女である以上は「料理好き」で「家庭的」でなければいけないのだと内面化し、苦悩することもあるだろう。
パートナーの有無、家族構成、ライフスタイル等にかかわらず、食べることは生涯続く。なによりもまず自分の快適さのために、そして自分が孤独にならないために──もし誰かと同居していて、同居人が日々の料理を担ってくれているなら、その人を孤独にさせないために──できることはたくさんある。あなたの家の台所の扉は、ひらいているだろうか。