ニューヨーク在住のアレックス・レヴィ(ジェニファー・アニストン)は、ミッチ・ケスラー(スティーヴ・カレル)とのコンビで、大手テレビ局UBAの報道番組『ザ・モーニングショー』のメインキャスターを15年間務めている。抜群の知名度と好感度を誇るふたりだが、ある日、ミッチが性暴力の告発を複数受けて突然解雇された。
動揺するUBA局内。一方そのころ、ウエストバージニアの炭鉱の抗議集会でのワンシーンがSNS上で拡散されつつあった。ローカル局のリポーターであるブラッドリー・ジャクソン(リース・ウィザースプーン)が、参加者に向かって激しく怒鳴る動画だ。歯に衣着せぬ彼女の訴えと存在感は世間の注目をじわじわと集め、やがてザ・モーニングショースタッフの目にも留まる。UBAは、一風変わった“明るいニュース”としてブラッドリーのインタビューを放送すべく、彼女をニューヨークに呼び寄せるのだが……
The Morning Show
2019年 アメリカ
セクシュアルハラスメントや性暴力被害を告白するハッシュタグ・アクティビズム「#MeToo」の隆盛を物語の背景に据えつつ、性差別・性暴力の実態とその周辺の人間関係を丹念に描く秀作だ。加害者はもちろん、性暴力を黙殺した「傍観者」たちとそのコミュニティが犯した罪を深く鋭く探ってゆく。
アレックスは複雑なキャラクターだ。経済的成功をおさめ、名声を手にし、UBAの朝の顔として君臨し続けている点では間違いなくアメリカ社会の特権階級の人間だが、そのアレックスですら、白人男性が大多数を占めるUBA経営層によって捨て駒のように扱われそうになる。
彼女は白人優位社会で優遇され続けてきた勝者であると同時に、男性優位社会で居場所を失わないため「男性的タフさ」を図らずも内面化してきたサバイバーでもある。世間の反応や批判を極度に気にし、成功者としての王冠を戴きながら、王冠の喪失をつねに恐れる。苛烈で、傲慢で、傷つきやすく、それでいてときおり無防備なくらい素直。重なったいくつものレイヤーの向こうに、腹立たしくも忘れがたいアレックス・レヴィという女性が生々しく佇んでいる。
はじめこそ「ザ・モーニングショーの再興に尽力する健気なベテランキャスター」というポジションにいたアレックスだが、性暴力事件の根本的な責任は追及されないつもりでいた彼女の足元は、ミッチの後任のブラッドリーによって大きく揺さぶられる。アレックスが────ひいては多くの番組関係者が、ミッチによる女性スタッフへの性差別・性暴力を看過していたことが炙り出されるのだ。
アレックスの生き方は、性差別が単純な「男性対女性」の対立に終始するものではなく、男性優位社会の構造の問題であることを示している。シーズン1最終話、アレックスはブラッドリーと共に、そのとき出来る最大限の善を為す。「恐怖、沈黙、疑心暗鬼、痛みがはびこる文化」が番組内に浸透していたこと、さらに自分が「その文化の犠牲になった女性たちを見捨てた」と認めるのだ。なぜなら「私は成功していたから」。
アメリカ合衆国に住む女性の多くがフェミニストではないということに、わたしは驚かない。フェミニストであるためには、自分たちが平等であり、同じ権利を持つと信じなければならない。だが、自分が属している家族やコミュニティや教会や州がそれに同意しない場合には、日常生活で居心地が悪くなり、危険にもなる。一一秒ごとに女性が殴られるこの国で、しかも一〇代から四〇代までの女性に暴力を与える加害者のトップが現在や過去のパートナーであるこの国では、多くの女性にとって、自分が平等で同じ権利を持つと考えないほうが安全なのだ。そして、フェミニズムが恒久的に歪められ悪者扱いされている国では、男女が平等で同権だという信念は普遍的なものではない。
レベッカ・ソルニット著『それを,真の名で呼ぶならば 危機の時代と言葉の力』
本作が切り込むのは性暴力を黙殺する社会構造、それからもうひとつ、「レイプ」の定義だ。
性暴力被害を告発されたミッチは、「合意の上だったんだ」「俺は強引に犯したりしない」「(ハーヴェイ)ワインスタインとは違う」といった言葉で必死に否定する。ミッチにとっての「レイプ」は、暴力や恫喝や薬物などで相手の身体的自由を奪ってセックスに持ち込む行為のみを指しているのかもしれない。ミッチのように圧倒的な権力を持つ男性がじりじりと距離を詰めてくること、日常会話のあいまに性的な「ジョーク」を差しこまれること、密室にふたりきりになることが、女性にとってどれほどの暴力性を帯びるのか想像できないのだ。レイプをレイプとして認識しない加害者については、映画『最後の決闘裁判』(2021年)で描かれたことも記憶に新しい。
権力者を手厚く保護する不健全な組織風土はもちろん、権力者を保護することで周囲が利益を得る(あるい保護しなければ不利益を被る)力関係も打ち壊さないかぎり、性暴力は繰りかえされるだろう。果たしてUBAは変われるのか。変わるためになにを取り入れ、なにを切り捨てるべきか。UBAは社会の縮図だ。『ザ・モーニングショー』で起きていることは、私たちの暮らしでも起きている。